国生みの島で

https://www.asoview.com/note/441/

兵庫県・淡路島。

 日本神話ではイザナミ・イザナギが最初に「生んだ」島がこの淡路島とされています。
瀬戸内海に浮かぶ広大なこの島は、軽自動車ひしめくガラパゴス自動車国家の日本でも更に特異な島内のみに共通する自動車文化を持っています。

農民車

 こう呼ばれる農業用車両は「農耕作業用大型特殊自動車」や「農業用小型特殊自動車」等に分類さされます。しかし、この農民車は広く一般販売されている自動車ではありません。
 栽培する農作物や乗り手に対応した、同じ車両が一つとない、それぞれが唯一無二のワンオフカーというものです。その起源は昭和30年代まで遡ります。

 ぬかるんだ地質が多い淡路島の農地では、軽トラック以上のタイヤ径・四輪駆動・コンパクトな転回性能が求めらます。
近しい車両はトラクターですが、当時は非常に高価な自動車だったため、その代替として地元の鐵工所が中古車の部品を寄せ集めて農家のニーズに合わせて「生産」したのが農民車でした。

出典:2017年6月10日付神戸新聞NEXT https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/shingokoku/P20170927MS00167.shtml

 生産と言っても、そのほとんどが農家ごとに一台一台違う、いわばオーダーメイド(はたまたビスポークと言えるかもしれない)の立派な自動車です。

 今でも日本国内において、一から製作するオーダーメイド車両を走行させるのには非常に高いハードルがあります。最たる事象は、ナンバー取得のための車両型式認定が必要であること。
その当時も認定や道交法上の問題がありましたが、地元民は警察や陸運局を巻き込み、認定取得を研究。更に政治家への働きかけと農業における有用性をアピールし、その認定を取得しました。

 以上のような淡路島の地質と、農民車黎明期の島民の努力によって、淡路島に「農民車」が定着していきました。

そうして、島内で生産される玉ねぎを大量に載せて、農民車は今日も一所懸命に走っているのです。

さらに、島内の地域によってエンジン位置や小径タイヤを用いるなどの、農民車の派生もあるというから面白い。

農民車登場から半世紀以上。農民車を生産する鉄工所は減少し、車齢も半世紀近く稼働しているものも少なくないと言われています。
部品の供給や農業そのものの機械化により、この特異な自動車文化はいまや存続か消滅かの岐路に立たされています。

自動車の地産地消

 自動車産業は国家の屋台骨と言われて久しく、日本も例外ではありません。

高付加価値である自動車製造は、国家経済の生命産業。
そしてこの言葉は、自動車の大量生産とそれを支える労働力が必須条件です。画一的な製品を安価により多くの人々が利用できること、筆者はこれ自体に否定はしないし、科学技術の進歩として喜ぶべきと思っています。

しかし、天災や未曾有の経済危機の中で大量生産は脆いことは、過去の世界恐慌や経済危機の経験から想像に難くありません。

今一度、自動車産業におけるマクロ大量生産の真逆、マスキングされた「ミクロ」に焦点を当てても良いはずではないでしょうか。言い換えれば、自動車産業=マクロ経済ではなく、ミクロ経済としての自動車産業として想像をしてみましょう。

https://wwww.dailynewssegypt.com/2020/02/26/egypt-needs-a-new-production-strategy-to-keep-up-with-international-auto-industry/

 生産ラインに組み立て作業員が立ち並ぶ典型的な自動車生産の光景が、一人ないし少人数で、ときには遠隔作業を用いて自動車を生産する光景へと変わる。
とくに少人数での生産は高付加価値の高級車ではよく用いられる手法ではあるものの、これは今回のコロナによる災禍への抗力が強い事業構造ではないでしょうか。
 今後、これまでどおりのモノの生産を継続していくことは厳しくなってしまうと推察され、画一的な大量生産を継続する企業はその存続すら危ぶまれてしまうかもしれません。
 
 これが現実に可能であるかは議論の余地が十分にあります。なにより現時点では大量生産を維持するためにそのミクロ的手法を用いることは難しいと答える企業や有識者が多いはずです。
繰り返しになってしまいますが、それは画一的製品を大量に生産し、グローバル化と叫ばれる世界中で同一製品を消費する行為を前提にしているからです。大量生産とグローバル化は非常に仲が良いのです。

「生産は直接に消費であり、消費は直接に生産である」
経済学批判序説でマルクスは語っています。

なるほどやはり現代資本主義とは消費である。

 今回のコロナ禍で、人間同士の接触機会を減らすことが世界の人々に求められました。
接触機会の削減と資本主義の求める消費活動は相反し、大量生産とグローバル化は人的多数の接触によって成立しています。現在の自動車産業は特にそうです。

農民車のデザイン:KIWA ART AND DESIGN / 2019年

 しかし、自動車にとって大量生産とグローバル化が生きる選択肢でありつづけるのでしょうか。
真逆である、少量生産と地域主義は本当に自動車の世界で適用できないのでしょうか。

農民車が地域ニーズから局地的に出現し発展を遂げたように、農民車の地産地消の構図は現代へのアンチテーゼのように見えてなりません。

 現代そして未来の自動車生産のあり方は、農民車から学べるのではないでしょうか。
 ポスト農民車の構造が停滞する自動車産業の突破口に一助になるはずです。

【参考】
2017年6月10日付 神戸新聞NEXT
2016年8月23日付 産経WEST